嗜好と進化論

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子どもの頃からの小さな積み重ね。それが今の自分を形づくっている。いかにもありがちなストーリーなのだけれど、実際にそれを自覚することはほとんどない。一部のアスリートやアーティストであれば、幼少期からのたゆまぬ努力が現在に実を結んでいるということもあるだろう。一方で、ぼくら凡人が凡人たるゆえんは、とくに何かを積み重ねる出もなく生きていることだったりするのかもしれない。


これまで食べてきた物が、今の自分を形づくっている。自覚こそないかもしれないが、超人であるか凡人であるかに関わらず誰しもに当てはまる積み重ねだと言える。ところが、ここで大きく2つのグループに別れる。好きな物を先に食べるか、嫌いな物を先に食べるか。自分は間違いなく後者であることを自覚している。


好きな物を後のお楽しみとしてとっておく。そんな食べ方を何十年も繰り返してきた。白いご飯は嫌いではないけれど、好きなものには該当しない。好きな物はたいてい味の濃いおかずで、それをいかに最後に残すかという計算が食事中の思考の大部分を占めている。好きな物を残すためには、白いご飯をいかに減らすかがポイントとなる。少ない量のおかずで、なるべく多くのご飯を食べる。食事における前半戦の定石だ。


最小限のおかずで最大限のご飯を消費する。これこそが、ぼくらが獲得した能力であり、子どもの頃から積み重ねてきた成果なのだ。そしてぼくらの子どもたちも、好きな物を最後に残し、ご飯/おかず比率最大化の能力を獲得していくだろう。ここで、地球上のおかずの生産量が激減したとしよう。多くのおかずがなければご飯を消費できない人々は生きてはいけない。地球上に生き残るのは、少ないおかずでご飯を食べられる人々、つまり、好きな物を最後に残すタイプの人々だ。


こうして淘汰が起こり、人類はより好きな物を残す方向に進化してゆく。好きな物を残すために白いご飯だけを口に運ぶ娘たち、彼女らはまだうまく比率の計算ができないようだ、を見守りながらこんなことを考えたりもする。おかずとご飯がバランスよく結合している食べ物があれば、それは人類を救うことになるんじゃないだろうか。スシが食べたい。

胃カメラ

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最悪だ。健康診断の結果が届いた。精密検査が必要と書かれている。読みなおした。精密検査が必要と書かれている。病院が嫌いだ。正確に言うと、病院で痛い思いをするのが嫌いだ。だから、眼科よりも歯科の方が行きたくない。健康診断では、人生で初めてバリウムを飲み、ぎこちない舞を舞った。左方向に横になってすぐに右を向き、それから一回転、しかも舞台は三次元に稼動する。検査が終わったら体内からバリウムを排出する戦い。痛くはなかったが、不快だった。これが毎年続くのか。365日に1日はバリウムを飲んで過ごすことになる。残りの364日を大切に過ごそうと思った。


普段から体調の悪さには定評がある。イベントでは2日間に10人以上から「痩せたね」「大丈夫?」と心配される。しかし、健康診断で悪い結果が出たことはなかった。頭がオカシイんです!と病院に駆け込んだこともあったが、問診だけで異常なしと判断された。いちおう頭がオカシイ人のための漢方薬を処方されたのだが、飲んでも効果がないことは承知していた。何しろ健康なのだ。健康診断の結果はいつも良好。健康すぎて申し訳ない。


ところが、今年は違った。精密検査が必要と書かれている。読みなおした。精密検査が必要と書かれている。精密検査って何だ?今年は1日バリウムを飲んで過ごしているので、バリウムを飲まずに過ごせる日は364日だ。そのうちさらに1日を精密検査に費やすというのか。精密検査では何を飲むのだろう。周期表バリウムの下のラジウムだろうか。それじゃ内科じゃなくて放射線科だ。とにかく健康診断よりも不快な思いをすることは明らかだ。行きたくない。


病院には行きたくないが、早期発見早期治療しないと、もっと痛い目に会うかもしれない。覚悟を決めて病院に向かう。内科に案内され、検査内容を告げられる。胃カメラ。聞き返した。胃カメラだった。その存在は知っている。しかし、詳しい話は聞いたことがない。こんなことなら、先週帰省した時に両親に聞いておけばよかった。どのような心の準備をすればいいのかわからない。


胃カメラは初めてかと尋ねられた。ミラーレスの一眼カメラを買ってどれくらいになるだろうか。基本的にイベントの記念撮影しかしない。初心者だ。思い切って一眼レフも買ってみたが、使いこなせていない。胃カメラはどうだろうか。重要な事に気づいた。撮影するのは自分じゃない。今日はモデルなのだ。胃カメラが初めてかという質問は、モデル経験があるかという問いなのだ。僕の胃はモデル経験がありませんと答える。初心者用の細いカメラがあるらしい。なるほど胃モデルにも初心者や上級者がいるものなのか。しかし初心者用カメラは解像度が低いため、今回は中上級者用のカメラを使うことになった。高画素指向は一眼レフも胃カメラも変わらない。


部屋に入ると、医師や看護師たちは透明なビニールのエプロンをしている。上半身を着替えさせられた。嫌な予感しかしない。吐くのか?これは吐くのか?ベッドに腰掛けると、喉に麻酔を吹き付けられた。シュッ、シュッ、シュッ、3回。苦い。しかもそんなに奥に噴射されると、吐きそうになる。こらえて飲み込む。シュッ、シュッ、シュッ、さらに3回。涙目になる。親が死んでも泣かない肥後もっこすの家系に生まれたにもかかわらず、胃カメラの前菜にすぎない麻酔で涙目になるなんて。追い打ちをかけるかのように肩に注射を射たれる。筋肉注射だ。痛い。帰りたい。


麻酔が効いてくると、喉が詰まった感覚に襲われる。唾液を飲み込むなと言われる。飲み込んだ。むせた。ベッドに横になる。唾液は容器に垂れ流しにする。部屋に医師が入ってくる。逃げ出さないと心に決めた。ここからは医師と意志との闘いだ。いや、そんなダジャレを言うノリではない。マウスピースをはめられた。やっぱり闘いだ。僕の闘志に反して、医師はジェントルマンだった。ディズニーランドのアトラクションの係員のような口調で、胃カメラの説明を始める。ディズニーランドには行ったことがないので、それが本当にディズニーランド的であるかはわからないけれど。少し上を向くとモニターで自分の胃の中を見れるようにしてある。モニターを見ている方が気がそれていいのだそうだ。やっぱりアトラクションだ。


いよいよ胃カメラ、想像していたとおり黒いホース状だった、が体内へと侵入してくる。麻酔が効いているため痛くはないが、苦しい。「大変じょうずでございます!」ディズニーランドの医師が褒める。大人になってこんな褒められ方をしたことがあっただろうか。赤ん坊が言葉にもならない声を出して親に褒められるような、そんな感覚だ。後ろでは誰かが背中をさすってくれている。おっさんなのか戸田恵梨香似のナースなのかはわからないが、喉の苦しみを忘れようと全神経を背中に集中した。唾液を垂れ流し、ディズニーランドの(かなり年配の)お兄さんに褒められながら、戸田恵梨香似(かもしれない)のナースに背中を優しくさすられている、自分はいったい何者なのだろう。


モニターに胃の内側が映し出される。人間はホースだ。高校の生物教師の声が脳内に再生される。口から肛門まで管が通っている。それはつまり、人間がホース状をしていることを意味する。胃の内側と書いたが、ある意味、外側でもある。内側か外側か、くだらない議論に思えるが、真剣に議論した。それは喉の苦しみを忘れようとする行為だった。胃カメラには胃に空気を送り込む機能があるらしい。腹が膨れるのを感じた。ジェントルマンからアナウンスがあり、胃カメラが胃壁を圧迫した。 操縦士が操作を誤れば、体を突き破ってそれが飛び出してきそうな気がする。エイリアンだ。TDLじゃなくてUSJだったのか。幸いなことにエイリアンは体を突破ることなく、元通り喉を通って体外へと帰還した。


こうして僕の体内を巡る旅は終わりを告げた。喉の麻酔は効いたままだ。唾液も飲み込めないし、声も出ない。ジェントルマンの説明に首を立てに振り続ける時間も終了し、病院を後にした。外に出ると、樹木に囲まれた公園が広がっている。強烈な光と熱気に包まれて、一瞬目が眩みそうになる。一気に現実世界に引き戻された気がした。喉が麻痺していなかったら、すべて夢だったと感じたかもしれない。しかし、胃カメラはたしかに僕の体内に侵入し、364日のうち1日を削りとっていった。検査結果はすでに聞いている。なにもかも正常だ。もちろん今が正常だからといって、将来もずっと正常だとは限らない。来るべき日に備えて1日1日を大切に過ごそう。麻酔が解けたら何を食べよう。そうだ。スシが食べたい。

地下鉄にて、死の象徴としてのホームドア

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改札を通り抜け、ホームへと降りていく。蛍光灯の配置を確認しながら。地下を照らすには少ないように思える蛍光灯が、構内をまんべんなく照らしている。地上の駅のに比べるとはるかに明るい地下鉄のホームでは、終電が近づく時刻になっても喧騒が途絶えることがない。目の前では若い女性の二人組が笑いながら「マジヤバイ」を連発している。


その笑顔の向こうには蛍光灯の光がわずかにしか届かない薄暗い空間が広がっている。薄暗いといっても、乗車位置からのぞいてみれば線路がはっきりと見えている。地下鉄が通る場所。ただ、それだけだ。いや、それだけだった、と言うべきだろうか。9年前にホームドアと呼ばれる安全柵が設置されるまでは。線路は地下鉄が通る場所だった。


ホームと線路の境界線ははっきりしている。飛び降りれば簡単には戻ってこれないことを認識させるのに十分な高さの段差がある。その段差は、ホームで地下鉄を待つ人と、地下鉄が通る線路とを、ただ何の意味もなく隔てていた。


故意であるか事故であるかに関わらず線路への転落を防止するため、地下鉄全駅にホームドアが設置された。ホームから線路への移動を阻止するホームドアの存在は、ただ地下鉄が通るだけだった線路に対する認識を変えることにる。線路は降りてはいけない場所になったのだ。


もちろん、線路は人が降りるところではない。それはかねてから暗黙の了解とされてきた。校内放送では一歩下がって待つよう指示が出されるが、線路に降りるなという警告は発せられることはなかった。ところが、ホームドアは明確に、線路への侵入を禁止した。線路に降りれば、死ぬ。だから降りるな。ホームドアはそれまで地下鉄の通り道だった線路を、侵入すれば死が訪れる空間へと変貌させた。


毎朝、毎晩、ホームドアを目にするたびに思う。ホームドアを境に生の空間と死の空間が隣り合わせに存在している。薄暗い、でも十分な明るさを持っていた線路側の空間が、今では死の闇に覆われている。ホームドアはその死の空間の象徴なのだと感じる。安全を守るために設置されたホームドアが死を象徴しているということに不気味さを覚える。


幸か不幸かホームドアを乗り越えようと考えたことはまだない。ただその存在に不気味さを感じつつ、その不気味さ自体を面白がる日々を送っている。それもホームに降りた数秒のことで、すぐに今日のランチに何を食べるかという議題に取り組み始める。その議論も、長くは続かない。地下鉄が到着する頃には結論がでている。スシが食べたい。

フリー・タイム・ランチ

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昼休みにランチを食べない。そんな決意をした。週に1回は12時前にランチを食べる。変わろうと思った。当たり前を当たり前だと思い込む。常識人である僕はそうやって生きてきた。昼休みにランチを食べることに何の疑問もなく生きてきた。でも。果たして、それでいいのだろうか。


食事を摂るということは生命維持に関わることだ。憲法の言う「健康で文化的な生活」のそのさらに下層に位置する。食事を摂るというのは一切の法律に侵害されない権利であるはずだ。一方、昼休みというのは、学校であったり会社であったりのルールでしかない。給食を一斉に配食するという目的は理解できるが、弁当や外食であれば食べる時間を固定する理由がない場合が多いのではないか。昼休みというものが何となくで決められてはいないだろうか。


腹が減ったら食事を摂る。食料の乏しい時代には、食事を摂ることができない時もあっただろう。しかし、現代の日本では、最低限10円あれば、うまい棒を食べることができる。もしも20円あれば、うまい棒を2本食べることができる。1000円ならば100本だ。生命維持に関わるエネルギーを補給することができる。なのに、なぜ、時間に縛られて生命活動を制限されてしまうのか。


食欲を満たすために、学校や会社、または社会のルールを破ってもいいと主張したいわけではない。性欲を満たすために犯罪を犯していいかというと、それは違う。ただ。昼休みが何となくで決められている可能性があるということ。その何となくで決められた時間によって生命活動が制限されていることに疑問を持たないこと。それが怖いと感じた。当たり前を当たり前だと思い込んでいる状態は、怖い。なにも昼休みに限ったことではない。現在この国で生きていれば、似たような、言わば歪みのようなものを感じることは少なくないだろう。


強調する。ルールを破ろうと思って、昼休みにランチを食べないと決めたわけじゃない。何の疑問も持たずに無自覚に生きている自分へ警報を鳴らすのが真の目的だ。義務教育の9年間で、日本人は昼休みにランチを食べなければならいという強迫観念にも近いような意識を刷り込まれてきた。これも義務教育を全否定するわけじゃない。正しいのかそうじゃないのか、必要なのかそうじゃないのか、自分で考えながら生きていこうと思っただけだ。


とは言え、このチャレンジには問題もある。寿司屋のランチタイムは残酷なほどにその時間が明確に定められている。寿司屋のランチタイムは絶対だ。それは、この国において唯一、生命活動を制限されてでも服従すべきものだ。生きるか死ぬかなど問題ではない。スシが食べれるかどうかがかかっている。そろそろ昼休みの時間だ、スシを食べに行ってこよう。

あおいグリーンとその世界観について

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宮崎あおいはグリーンがかっている。その名に反して。


世界観を創るということに興味がある。紀里谷和明監督の映画「CASSHERN」はその興行収入の高さにも関わらず世間の評価は低かったらしい。しかし、僕は「CASSHERN」の世界観が大好きで、後に再評価されたということを知ってもそれが当然だという気がした。宮崎あおいは「CASSHERN」には出ていない。ただ、世界観の話がしたかっただけだ。最近、自分が宮崎あおい好きとして認識されているように感じるが、彼女自身よりもむしろ彼女の周辺の世界観が好きだと言ったほうが正しい。


人として見ていない感覚がある。芸能人と付き合いたいだとか結婚したいだとか夢見る人は多いかもしれない。しかし自分に関して言えば、宮崎あおいに対してそのような感情はない。LINEのキャラクターが大好きでもコニーやブラウンと付き合いたいだとか結婚したいだとか思わないだろう。それと同じだ。もしかしたらジェームズはアリだという人はいるかもしれないけれど。


そもそもテレビや映画に出ている人は実は実在しないんじゃないかという妄想を抱えている。人生において病的な原因により何らかの妄想から逃れられない時期があった。しかし、芸能人が実在しない妄想は、どんなに健康でも消え去ることはない。上戸彩なんて、本気で存在しないと思っている。剛力彩芽は、まあ、存在するかもしれない。


リエーターが映像や写真で女優を撮るとき、もともと期待されている世界観で撮るのか、逆にそれを裏切るのかという選択を迫られるのだと思う。グリーンがかった宮崎あおいをブラック気味に仕立てたのがオリンパスのコマーシャルだ。それが僕にオリンパスに対する取っつきにくさを感じさせる。だからパナソニックのカメラを使う。パナソニック綾瀬はるかの透明感をそのまま表現している。


宮崎あおいのグリーンと同じような感じを受けるのが、堀北真希のブルーだ。彩度と明度が近い気がする。宮崎あおいの彩度と明度をそのままに、色相だけを100°ほどシフトさせると堀北真希になりそうだ。ただ決定的に違うのは、堀北真希はブラック気味に撮っても違和感のない世界観が構築できるという点だ。もしかしたら、と言うよりも多少想定はしていたのだが、宮崎あおいよりも彩度がもう少し低いのかもしれない。


彩度が低く明度の高いこの2人を出したことで、そのようなカラーが好みだと思われるかもしれない。しかし、食べ物の好みはまったく違っていて、彩度が高めで、もっと言えばシャリの上にネタが乗っている感じが好きだ。回転寿司の世界観はすばらしい。スシに混じってフライドポテトが回っていても許される世界。アカデミー賞を送りたい。そしてその世界に包まれながら、スシが食べたい。

多目的トイレや優先席を利用してもいいですか?

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あきれるくらいに心身ともに健康だ。たまには病気で寝こみたいなんて思う時もあるけれど、インフルエンザにでもかからない限りなんとか動けてしまう。まあ、贅沢な悩みというもので、そんなことを言っていると、心身に問題のある人から地獄に落ちろと言われても仕方がないと思う。もしくは、トイレに落ちろとか。


多目的トイレというのがある。誰でも利用できると書いてある。しかし、健康な人の中には使ったことがない人も多いんじゃないだろうか。たとえある程度、ウンコが漏れそうだったとしても。なんとなく、利用してはいけないような気がしてしまう。

通常のトイレの個室がすべて利用中で、多目的トイレしか空いていなかったとしよう。健常者であっても、そうでなくても、ウンコモレビリティは同じ程度のはずだ。具体的に数値化して考えよう。仮にウンコモレビリティの単位をmore chance(漏れチャンス)とする。障害者のウンコモレビリティがone more chance(1漏れチャンス)だとすると、健常者のウンコモレビリティもone more chanceのはずだ。季節ようつろわないで。

通常のトイレが空いておらず、多目的トイレを利用しないというポリシーを持っているのであれば、別のトイレを捜すことになる。向かいのホーム。路地裏の窓。こんなとこにあるはずもないのに。そうしているうちに、通常のトイレには人が並んでいく。おそらく個室に並ぶ人の分布はポアソン分布に従うので、並ぶときには何人も並ぶ気がする。そこへ障害者が現れる確率を考えると、素直に多目的トイレを使うべきだと思う。


まあ、トイレなら自分が辛いだけなので、個人のポリシーに任せるということでいいだろう。ところが、地下鉄や電車となると話が変わる。大抵の車両には優先席が設けてある。優先席なので優先順位が決まっているだけで、誰でも座ることができるわけだが、これもまた心身ともに健康だとなかなか座りづらい。

優先席が空いているにも関わらず、立っている人が多いという光景をよく目にする。この状況は満員電車であっても変わらない。乗車率100%を超えた車内で、押し潰されそうになりながらふと優先席を見ると、そこだけポッカリと空間ができている。この状況であれば、近くの人が座ることで空間に若干のゆとりが生まれる。多目的トイレは個人のポリシーに従うとしても、満員電車の優先席は積極的に座るべきだ。優先されるべき人が乗車してきたら、さり気なく気づかれないように立てばいい。


何もない空間であれば、まわりのモノが流れこんできて、しだいに埋められていく。まわりが高密度なのにも関わらず、空間が埋まらないということは、その空間は別の何かで満たされているのだろう。空間を満たすものが善意であればよいのだけれど、満たしているものが居心地の悪さだとすれば、車内の空間デザインを再考すべきなのかもしれない。

きちんと配慮をしていれば、多目的トイレを利用しても構わないし、優先席に座っても構わない。満員電車の例のように、誰かが利用しなければならない状況もありうる。世の中にはスシが苦手な人がいる。それならば、よろこんで僕が彼のスシを食べよう。