今そこにあるコンテキスト・グラフ

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ソーシャルだ、ソーシャルだ、なんてわーわー言うとりますけど、次の来るのは「コンテキスト」だと思う。コンテキストだなんて、アッチ(熊本)での生活が長かったので横文字使ってしまったのだけど、日本語だと「文脈」ということになるのか。


ちょっと想像してみよう。金曜日の夜8時。職場の後輩、若干不倫関係にあってもいいかもしれない、それに吉高由里子似だということも付け加えておこう、と一緒に市役所の近くの居酒屋に入る。店に入るとおもむろにiPhoneを取り出し、Foursquareでチェックインしようとする。はい、ここでストップ。夜8時だ。この時、チェックインの候補として市役所がトップにあがってくるべきではない。つまりアプリにコンテキストを判断して欲しいのだ。空気を読んで欲しいと言いかえてもいい。

昼どき。地下鉄の改札を出て、スマートフォンを立ち上げる。そうすると、近くの飲食店を表示して欲しいことが多い。この時必要な情報は、場所と時間だろう。スマートフォンなら簡単に手に入る。この場所と時間の情報からコンテキストを判断できそうな気がする。ざっくりとなら。さらに情報を付け加えるなら、吉高由里子似の後輩、彼女はパスタとクリームブリュレが好きだ、のスマートフォンが近くにあるかどうかという情報。それによって表示する飲食店は変わるべきだろう。


ソーシャルだ、ソーシャルだ、なんてわーわー言うとりますけど、Facebookには致命的な弱点がある。実名を強制することで、一見その人物が実在することを保証しているかに見える。しかし実際には、そんな人物は存在しないのだ。普段の生活を振り返ってみよう。職場での自分、家庭での自分、吉高由里子と一緒にいる時の自分、すべて違う自分だということは容易に認識できるだろう。Facebookの自分のタイムラインはひとつしかない。つまり、本来なら複数に別れているべき自分がすべて入り混じっている。それはもはや自分ではない、もしくはFacebook上だけのもうひとりの自分だということに気づく。そんな人物はリアルには存在しないのだ。


この、いつ、どこで、誰と、何をしているか、がコンテキストだ。スマートフォンなら、いつ、どこで、誰と、を取得できる。そこから、何をしているか、あるいは何をしようとしているのかをアプリが推測する。モバイルが発達して便利になった反面、複雑化している感は否めない。アプリにコンテキストを判断して欲しいという需要は今後高まっていくのだと思う。

何だか少し先の未来の話をしているように思われるかもしれないが、コンテキストを判断しようというアプリはすでに登場し始めている。まだ精度が低かったり、手動による部分が多かったりするのだが。必ずしもスマートフォンだけでコンテキストを判断はなく、それをサポートするようなガジェットも登場してくるだろう。最近発売されたJawboneのようなものをイメージするといい。


話をもう一歩進めよう。ある人がある職場のコンテキストの中にいる。別の人、吉高由里子だったり、が同じコンテキストの中にいる。家に帰れば、それぞれが別のコンテキストの中に入る。こうして、コンテキストを介して人と人とが繋がっていく。コンテキスト・グラフだ。娘が学校というコンテキストの中で起こったことを、家に帰って家庭のコンテキストの中で母親に話す。コンテキストからコンテキストへと情報が伝播する。

ドラゴンボールなんかは、親の子供の頃のコンテキストと、子の現在のコンテキストが家庭というコンテキストで繋がり、そこから学校というコンテキストに情報が伝播していった例と言えるんじゃないだろうか。まあ、ドラゴンボールに関しては、世代の話になるので例としてはイマイチだったかもしれない。もっと良い例はないだろうか。

ソーシャル・グラフやインタレスト・グラフにビジネスチャンスを見出してきた人たちは、近年のWebとリアルの曖昧化の中で、どちらかというとWebの比重の大きかったソーシャルやインタレストから、よりリアルなコンテキスト・グラフへと視点を変えてみる必要があるのかもしれない。それに、「MAKERS」によるハードウェアがその流れを押し進めるだろう。


そんなことを考えていると、ランチの時間を逃しそうになる。今日はパスタとクリームブリュレが大好きな吉高由里子がいないので、スシを食べに行くことにしよう。

八百万の神と監視社会について

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八百万(やおろず)の神は、主張しないところがいいところだと思う。そこらの石ころやら何やらが、「私が神だ」なんて主張をはじめたら、かなり面倒くさいことになるだろう。お天道様が見てるから悪さしちゃダメだなんて、最近の子どもは言われたりするのだろうか。(人が)誰も見てなくても、八百万の神の誰かが見てるから悪事を控える。治安が良すぎて鼻血が出る。

ある意味、八百万の神、つまり様々なモノに監視されている社会とも言える。そういった意味では、日本は古来より心理的監視社会だ。でも、生活の一部始終をカメラで撮影されてると、しだいにカメラを意識しなくなるという話を聞いたことがある。だんだん感覚が麻痺してくるのだろう。昔は機能していた八百万の神も、見られてる感覚が麻痺してきた日本人には効果が減衰しているのかもしれない。


監視社会においても、ただ監視されているということはそれほど脅威ではない。個人をトラッキングされてはじめて、危惧すべき事態となる可能性がある。それでも可能性があるという程度で、普通に生活している者にとってはちょっと恥ずかしい思いをする程度なんじゃないかと思う。

八百万の神はと言えば、もう完全に個人をトラッキングしている。悪さをすればその本人が罰を受ける。だが、八百万の神のいいところは、良い行いも検出する仕様になっているため、良い行いに対しては幸運がもたらされる。


デジタルネイティブな子どもたちは、マニュアルを読まないという気がするので、その辺の仕様を理解しているとは言い難いんじゃないだろうか。八百万の神のスペックおよび仕様については、親である僕らが教えていかなければならない。ところが、現代日本では監視システムに対する感覚が麻痺してきているから、僕らもただFacebookに不利益なことを書いて自損事故を起こさないよう気をつける日々である。子どもに教える前に、まず自分からということになる。


良い行いをすれば、お天道様は必ず見ている。自分を大切にできない人は他人も大事にできない、と言う。まずは、自分に良いことから始めよう。自分のために、お昼はスシを食べようと思った。

自転車の乗り方

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サドルに座る。
右のペダルをこぐ。
左のペダルをこぐ。
それだけで前に進む。


足を動かさずに、
なぜ前に進まないか悩む。
悩んでいても進まない。
ただ、ペダルをこげばよい。


いったん進みはじめると、
より速く、より楽に乗れるようになる。
進めば進むほど、より安定する。


人生もそれと同じだ。


自転車に乗って、スシを食べに行きたい。

寝言は寝て言え

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寝言は寝て言え。30年以上生きてきて、一度も言われたことがない。この言葉は、実際に言われるとカチンと来そうだけどちょっと言われてみたい言葉ランキングのトップ100常連となっている。

寝言は寝て言え。起きている状態での発言は寝言ではない。すなわち、起きている状態で発せられた当該発言が寝言に等しいということを示している。寝言に等しいというのがどういうことかというと、寝ている状態で発せられる言葉と同じ、つまり夢を見ている状態においてその夢のなかでの発言であり、現実的ではないということが言いたいのではないだろうか。

ここで、昼過ぎに昼食に誘ったら「今、朝食食べたので。。」と断られるケースについて考えてみたい。昼に食べるのは昼食であり、朝食は本来であれば朝に食べるはずだ。朝と昼の境界というのは曖昧であり、個人による差が大きい。しかしそれを差し引いても、正午を過ぎて食べていれば、朝食ではないはずだ。しかし実際には、前述のような状況は多く見受けられる。

これは朝食の特殊性に由来すると考えられる。朝食とは朝食べる食事というよりは、起床して最初の食事という意味合いが強い。昼過ぎに起床したとすると、最初に食べた食事を朝食と呼んだとしても不自然なことではないのだろう。

昼食には朝食のような特殊性はない。つまり、夜に昼食を食べるというシチュエーションは存在しないのだ。ここは厳密に、昼食であるか夕食であるかを区別する必要がある。何時までに食べれば昼食、すなわちランチなのか。

店によってはランチタイムを設けて、昼食と夕食との境界を明確に定義している。いつまでが昼であるかというのは個人差によるところが大きいわけだが、この店は客の都合などお構いないしに昼と夜に線引をしている。つまり、ランチタイムのある店は客に対して優位性を保っており、そのような店に入るときには軽く下手に出るべきだろう。店員いじりや理不尽なクレームなどは許されない。なにしろ、昼と夜の境界を定義しているのは店側なのだ。支配権は向こうにある。

ランチタイムの終了時刻が遅い店というのも存在する。オフィスの近くで500円のスシランチを提供するスシ屋がある。このスシランチは夕方5時まで提供されている。まだ間に合う。スシが食べたい。

信用力は林檎ステッカーに宿る

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信用されてないんだなあと感じる時がある。自分の発言や行動が裏目に出る。やることなすこと、すべてにおいて裏目に出た時期があった。全部そのまま放置している。いまは信頼を回復すべく、もちろんそれが最終目標ではないのだけど、とにかく前に進むだけだ。

当時、iPhoneを使って物々交換をするアプリを開発していた。そのアプリのDNAを受け継いで、個人間で売買を行うアプリが生まれた。ちょうどそのころ、海外ではGumroadというデジタルコンテンツの売買プラットフォームが登場していた。

個人間の取引となると、信用の問題が持ち上がる。決済システムを導入してクレジットカードや銀行口座を抑えておくと、それなりに信用があると見なせるのだろうか。だがそれは、身元の保証と、金銭を支払う能力があるという信頼力でしかない。個人間取引において必要な信用というのは、相手がルールを守るかどうかであるはずだ。

相手がルールを守るかどうか。それの目安となるのがヤフオクやAmazonのマーケットプレイスでの取引相手による評価である。星の数が多いと信用力があるとみなされる。身元がハッキリしているとか、お金を持っているとかではないということだ。そう言えば、「彼にお金を貸すくらいなら海に捨てたほうがマシだ」という、ひたすらにヒドイ英語の例文を思い出した。

半年ほど前から、お金に変わる信用力のバロメーターがあるんじゃないかと模索している。模索していると言ったものの、半年のうちに40分間くらい考えただけなんだけど。

Apple社の立場に立ってみよう。Apple社の実態は宗教法人なので、教徒たちは新製品が出るたびにそれを買い求める。Apple製品を購入すると、必ずAppleのステッカーが同封されている。熱心な教徒ほど多くのステッカーを保有していることだろう。

お金を持っている人が、製品を買うわけではない。欲しい人が製品を買うのだ。Appleからすると、経済力の高い人ではなく、お金はなくとも製品を買ってくれる人こそ信用できると言える。製品購入率とステッカーの保有率に正の相関関係があるとすると、かじり林檎のステッカーを持っている人ほど信用力が高いことになる。

これまた半年ほど前から、Appleのステッカーを通貨として流通させられないか模索している。模索していると言ったももの、半年のうちに50分間くらい考えただけなんだけど。

Appleがステッカーの保有枚数に応じてクーポンを発行する。しかも、ステッカーには発行年月が記載されており、古くなるにしたがって引き換えられるクーポンの割引率を引き下げる。これはシルビオ・ゲゼルの自由貨幣からヒントを得ている。使わなくなったApple製品は、ステッカーと引き換えに誰かに譲り渡す。ステッカーは保有していても価値が下がるだけなので、そのステッカーを使って新品もしくは誰かが保有しているApple製品を購入することになるだろう。

Apple製品を安く買いたい人はステッカーを欲しがるだろう。一方で、当分買い換える予定がない人はステッカーを保有しておくメリットがない。そこで、ステッカー4枚で回転寿司をおごってもらうといった取引がなされるようになる。

今、手元に8枚のステッカーがある。スシが食べたい。

小学生の創造的破壊によるサステナビリティ

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小学生のころ、レゴブロックが大好きだった。毎日毎日、何かを作っていた。やりすぎて、吐きそうになることもあった。あるとき家族で食事に出かけた。しかし、レゴブロックのやりすぎで吐きそうだった僕は一切何も食べることができず、とても悔しい思いをした。スシ屋ではなかったけれども、悔しかった。それでも、懲りずにレゴブロックで何かを作り続けた。

可動式のパーツはほとんど持っていなかったが、ブロックの隅だけを結合するテクニックで可動式のロボットを作ったり、それもやりすぎて可動箇所をやたら増やしてロボットだか生物だかわからないものを生み出したりしていた。ヒトのDNAと99.89%くらい一致するような感じの何かだったのだと思う。もちろん、レゴブロックの世界の小さな黄色い顔の住人のために、家を建てたり車を造ったりもした。

プログラマーになった今も、当時と同じことをやっている。仕事ではある程度の時間をかけて大掛かりなものを作るが、個人的には長くても数日程度で何か作るというのを繰り返している。吐きそうになるまでやるのも、当時と変わってはいない。それが、良いことなのか悪いことなのかは、今の自分には判断がつかないのだけれど。


レゴブロックは買い足さない限り、作り続ければ当然ながらパーツが不足する。そうすると、それまで作ったものを壊す必要が出てくる。古いものを壊して、新しいものを作るためのパーツを獲得する。創造のための破壊だ。しかし、経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの言う創造的破壊とはニュアンスが違うように思う。どちらかと言うと、ここ2年くらいで広がっているシェアラブルとかサステイナブルとかそういう感覚なのだという気がする。

コンクリートでガチガチに固定した家をガンガン建てる。そうじゃなくて、分解可能な家を作って、住まなくなったら取り壊す。取り壊した後の資材で新しい家を作る。ブロックを買い足すのではなく、新陳代謝を起こす。サステナビリティについて考えたとき、最後にたどり着いたのは流動性というか、生物学者・福岡伸一動的平衡に近いものだという気がする。


少し前に作ったWebアプリがある。アプリ化されたアイデアと言うといいのかもしれない。sustainableというタイトルをつけた。

http://sustainable.namacode.asia/

アクセスするとランダムにthingが表示される。catch sight of...をクリックすると、表示されるthing次々に切り替わる。thingに対しては、sustainとoverwriteの2つのアクションをとることができる。thingに対してsustainすると、そのthingに対して新しいthingを作成することになる。overwriteは、今見ているthingを書き換える。

誰が作ったthingに対しても上書き可能なので、普遍的なthingは一切存在しない。それどころかサイトにアクセスするとランダムにジャンプするため、固定的なトップページさえ存在しない。でも、サイト自体は意図的に閉鎖しない限り永遠に存在する。どれだけのthingがsustainされようとoverwriteされようと、サイト自体は存在し続ける。

いつ上書きされるかわからないthingを持続するには、それを編集不可にしてしまうのではなく、sustainしてそのthingに対する新しいthingを作るということになる。元のthingが変更されても、元のthingに対するthingは残っている。さらに新しいthingに対するthingが生まれたり、そもそも1つのthingに対して複数のthingが生まれることもある。そうなると、あるthingに派生するすべてのthingを変更するのは不可能だろう。

objectiveをクリックしていくと、thingの派生元をたどることができる。最後までたどると、出発点となる問いかけが存在する、あるいは存在していたとすべきか、その問いかけ自体が上書きされているかもしれないのだから。それでもサイト自体は存在し続ける。ある程度のthingが集まると、全体的に見ると、そこから先は大きく流れが変わることはないんじゃないかと予想している。


現在プライベートな事情により頭が混乱していて、文章は二転三転する。破壊について。破壊という行為には痛みを伴うというイメージがある。でも、レゴブロックで吐きそうになるまでして作ったものを壊すとき、壊す時でさえそれを楽しんでいたのを覚えている。なにしろ新しく作りたくて仕方がないもののために壊すのだから。こうなると、創造的破壊という言葉はやはり相応しくないように思える。けど、創造的破壊についてよくわかってないので、同じことを言っている可能性もあるのだが。とにかく、何かを作るという欲求を満たし続ける、持続するための活動の一環なのだ。


回っていないスシというのは、基本的に注文が入ってから作られる。まあ、材料はすでに用意してあるけど。回っているスシや、スーパーのパッケージのスシにしても、大量生産しているわけではないだろう。必要な分だけ作るというあり方を体現した食べ物なのだと思う。一方で、ナマモノなので、余った場合に破棄するしかないという性質を併せ持っている。ここで、スシというものがサステナブルなのかどうかという疑問が生じるわけである。これは調査が必要だろう。スシが食べたい。