地下鉄にて、死の象徴としてのホームドア

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改札を通り抜け、ホームへと降りていく。蛍光灯の配置を確認しながら。地下を照らすには少ないように思える蛍光灯が、構内をまんべんなく照らしている。地上の駅のに比べるとはるかに明るい地下鉄のホームでは、終電が近づく時刻になっても喧騒が途絶えることがない。目の前では若い女性の二人組が笑いながら「マジヤバイ」を連発している。


その笑顔の向こうには蛍光灯の光がわずかにしか届かない薄暗い空間が広がっている。薄暗いといっても、乗車位置からのぞいてみれば線路がはっきりと見えている。地下鉄が通る場所。ただ、それだけだ。いや、それだけだった、と言うべきだろうか。9年前にホームドアと呼ばれる安全柵が設置されるまでは。線路は地下鉄が通る場所だった。


ホームと線路の境界線ははっきりしている。飛び降りれば簡単には戻ってこれないことを認識させるのに十分な高さの段差がある。その段差は、ホームで地下鉄を待つ人と、地下鉄が通る線路とを、ただ何の意味もなく隔てていた。


故意であるか事故であるかに関わらず線路への転落を防止するため、地下鉄全駅にホームドアが設置された。ホームから線路への移動を阻止するホームドアの存在は、ただ地下鉄が通るだけだった線路に対する認識を変えることにる。線路は降りてはいけない場所になったのだ。


もちろん、線路は人が降りるところではない。それはかねてから暗黙の了解とされてきた。校内放送では一歩下がって待つよう指示が出されるが、線路に降りるなという警告は発せられることはなかった。ところが、ホームドアは明確に、線路への侵入を禁止した。線路に降りれば、死ぬ。だから降りるな。ホームドアはそれまで地下鉄の通り道だった線路を、侵入すれば死が訪れる空間へと変貌させた。


毎朝、毎晩、ホームドアを目にするたびに思う。ホームドアを境に生の空間と死の空間が隣り合わせに存在している。薄暗い、でも十分な明るさを持っていた線路側の空間が、今では死の闇に覆われている。ホームドアはその死の空間の象徴なのだと感じる。安全を守るために設置されたホームドアが死を象徴しているということに不気味さを覚える。


幸か不幸かホームドアを乗り越えようと考えたことはまだない。ただその存在に不気味さを感じつつ、その不気味さ自体を面白がる日々を送っている。それもホームに降りた数秒のことで、すぐに今日のランチに何を食べるかという議題に取り組み始める。その議論も、長くは続かない。地下鉄が到着する頃には結論がでている。スシが食べたい。