胃カメラ

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最悪だ。健康診断の結果が届いた。精密検査が必要と書かれている。読みなおした。精密検査が必要と書かれている。病院が嫌いだ。正確に言うと、病院で痛い思いをするのが嫌いだ。だから、眼科よりも歯科の方が行きたくない。健康診断では、人生で初めてバリウムを飲み、ぎこちない舞を舞った。左方向に横になってすぐに右を向き、それから一回転、しかも舞台は三次元に稼動する。検査が終わったら体内からバリウムを排出する戦い。痛くはなかったが、不快だった。これが毎年続くのか。365日に1日はバリウムを飲んで過ごすことになる。残りの364日を大切に過ごそうと思った。


普段から体調の悪さには定評がある。イベントでは2日間に10人以上から「痩せたね」「大丈夫?」と心配される。しかし、健康診断で悪い結果が出たことはなかった。頭がオカシイんです!と病院に駆け込んだこともあったが、問診だけで異常なしと判断された。いちおう頭がオカシイ人のための漢方薬を処方されたのだが、飲んでも効果がないことは承知していた。何しろ健康なのだ。健康診断の結果はいつも良好。健康すぎて申し訳ない。


ところが、今年は違った。精密検査が必要と書かれている。読みなおした。精密検査が必要と書かれている。精密検査って何だ?今年は1日バリウムを飲んで過ごしているので、バリウムを飲まずに過ごせる日は364日だ。そのうちさらに1日を精密検査に費やすというのか。精密検査では何を飲むのだろう。周期表バリウムの下のラジウムだろうか。それじゃ内科じゃなくて放射線科だ。とにかく健康診断よりも不快な思いをすることは明らかだ。行きたくない。


病院には行きたくないが、早期発見早期治療しないと、もっと痛い目に会うかもしれない。覚悟を決めて病院に向かう。内科に案内され、検査内容を告げられる。胃カメラ。聞き返した。胃カメラだった。その存在は知っている。しかし、詳しい話は聞いたことがない。こんなことなら、先週帰省した時に両親に聞いておけばよかった。どのような心の準備をすればいいのかわからない。


胃カメラは初めてかと尋ねられた。ミラーレスの一眼カメラを買ってどれくらいになるだろうか。基本的にイベントの記念撮影しかしない。初心者だ。思い切って一眼レフも買ってみたが、使いこなせていない。胃カメラはどうだろうか。重要な事に気づいた。撮影するのは自分じゃない。今日はモデルなのだ。胃カメラが初めてかという質問は、モデル経験があるかという問いなのだ。僕の胃はモデル経験がありませんと答える。初心者用の細いカメラがあるらしい。なるほど胃モデルにも初心者や上級者がいるものなのか。しかし初心者用カメラは解像度が低いため、今回は中上級者用のカメラを使うことになった。高画素指向は一眼レフも胃カメラも変わらない。


部屋に入ると、医師や看護師たちは透明なビニールのエプロンをしている。上半身を着替えさせられた。嫌な予感しかしない。吐くのか?これは吐くのか?ベッドに腰掛けると、喉に麻酔を吹き付けられた。シュッ、シュッ、シュッ、3回。苦い。しかもそんなに奥に噴射されると、吐きそうになる。こらえて飲み込む。シュッ、シュッ、シュッ、さらに3回。涙目になる。親が死んでも泣かない肥後もっこすの家系に生まれたにもかかわらず、胃カメラの前菜にすぎない麻酔で涙目になるなんて。追い打ちをかけるかのように肩に注射を射たれる。筋肉注射だ。痛い。帰りたい。


麻酔が効いてくると、喉が詰まった感覚に襲われる。唾液を飲み込むなと言われる。飲み込んだ。むせた。ベッドに横になる。唾液は容器に垂れ流しにする。部屋に医師が入ってくる。逃げ出さないと心に決めた。ここからは医師と意志との闘いだ。いや、そんなダジャレを言うノリではない。マウスピースをはめられた。やっぱり闘いだ。僕の闘志に反して、医師はジェントルマンだった。ディズニーランドのアトラクションの係員のような口調で、胃カメラの説明を始める。ディズニーランドには行ったことがないので、それが本当にディズニーランド的であるかはわからないけれど。少し上を向くとモニターで自分の胃の中を見れるようにしてある。モニターを見ている方が気がそれていいのだそうだ。やっぱりアトラクションだ。


いよいよ胃カメラ、想像していたとおり黒いホース状だった、が体内へと侵入してくる。麻酔が効いているため痛くはないが、苦しい。「大変じょうずでございます!」ディズニーランドの医師が褒める。大人になってこんな褒められ方をしたことがあっただろうか。赤ん坊が言葉にもならない声を出して親に褒められるような、そんな感覚だ。後ろでは誰かが背中をさすってくれている。おっさんなのか戸田恵梨香似のナースなのかはわからないが、喉の苦しみを忘れようと全神経を背中に集中した。唾液を垂れ流し、ディズニーランドの(かなり年配の)お兄さんに褒められながら、戸田恵梨香似(かもしれない)のナースに背中を優しくさすられている、自分はいったい何者なのだろう。


モニターに胃の内側が映し出される。人間はホースだ。高校の生物教師の声が脳内に再生される。口から肛門まで管が通っている。それはつまり、人間がホース状をしていることを意味する。胃の内側と書いたが、ある意味、外側でもある。内側か外側か、くだらない議論に思えるが、真剣に議論した。それは喉の苦しみを忘れようとする行為だった。胃カメラには胃に空気を送り込む機能があるらしい。腹が膨れるのを感じた。ジェントルマンからアナウンスがあり、胃カメラが胃壁を圧迫した。 操縦士が操作を誤れば、体を突き破ってそれが飛び出してきそうな気がする。エイリアンだ。TDLじゃなくてUSJだったのか。幸いなことにエイリアンは体を突破ることなく、元通り喉を通って体外へと帰還した。


こうして僕の体内を巡る旅は終わりを告げた。喉の麻酔は効いたままだ。唾液も飲み込めないし、声も出ない。ジェントルマンの説明に首を立てに振り続ける時間も終了し、病院を後にした。外に出ると、樹木に囲まれた公園が広がっている。強烈な光と熱気に包まれて、一瞬目が眩みそうになる。一気に現実世界に引き戻された気がした。喉が麻痺していなかったら、すべて夢だったと感じたかもしれない。しかし、胃カメラはたしかに僕の体内に侵入し、364日のうち1日を削りとっていった。検査結果はすでに聞いている。なにもかも正常だ。もちろん今が正常だからといって、将来もずっと正常だとは限らない。来るべき日に備えて1日1日を大切に過ごそう。麻酔が解けたら何を食べよう。そうだ。スシが食べたい。