小学生の創造的破壊によるサステナビリティ

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小学生のころ、レゴブロックが大好きだった。毎日毎日、何かを作っていた。やりすぎて、吐きそうになることもあった。あるとき家族で食事に出かけた。しかし、レゴブロックのやりすぎで吐きそうだった僕は一切何も食べることができず、とても悔しい思いをした。スシ屋ではなかったけれども、悔しかった。それでも、懲りずにレゴブロックで何かを作り続けた。

可動式のパーツはほとんど持っていなかったが、ブロックの隅だけを結合するテクニックで可動式のロボットを作ったり、それもやりすぎて可動箇所をやたら増やしてロボットだか生物だかわからないものを生み出したりしていた。ヒトのDNAと99.89%くらい一致するような感じの何かだったのだと思う。もちろん、レゴブロックの世界の小さな黄色い顔の住人のために、家を建てたり車を造ったりもした。

プログラマーになった今も、当時と同じことをやっている。仕事ではある程度の時間をかけて大掛かりなものを作るが、個人的には長くても数日程度で何か作るというのを繰り返している。吐きそうになるまでやるのも、当時と変わってはいない。それが、良いことなのか悪いことなのかは、今の自分には判断がつかないのだけれど。


レゴブロックは買い足さない限り、作り続ければ当然ながらパーツが不足する。そうすると、それまで作ったものを壊す必要が出てくる。古いものを壊して、新しいものを作るためのパーツを獲得する。創造のための破壊だ。しかし、経済学者ヨーゼフ・シュンペーターの言う創造的破壊とはニュアンスが違うように思う。どちらかと言うと、ここ2年くらいで広がっているシェアラブルとかサステイナブルとかそういう感覚なのだという気がする。

コンクリートでガチガチに固定した家をガンガン建てる。そうじゃなくて、分解可能な家を作って、住まなくなったら取り壊す。取り壊した後の資材で新しい家を作る。ブロックを買い足すのではなく、新陳代謝を起こす。サステナビリティについて考えたとき、最後にたどり着いたのは流動性というか、生物学者・福岡伸一動的平衡に近いものだという気がする。


少し前に作ったWebアプリがある。アプリ化されたアイデアと言うといいのかもしれない。sustainableというタイトルをつけた。

http://sustainable.namacode.asia/

アクセスするとランダムにthingが表示される。catch sight of...をクリックすると、表示されるthing次々に切り替わる。thingに対しては、sustainとoverwriteの2つのアクションをとることができる。thingに対してsustainすると、そのthingに対して新しいthingを作成することになる。overwriteは、今見ているthingを書き換える。

誰が作ったthingに対しても上書き可能なので、普遍的なthingは一切存在しない。それどころかサイトにアクセスするとランダムにジャンプするため、固定的なトップページさえ存在しない。でも、サイト自体は意図的に閉鎖しない限り永遠に存在する。どれだけのthingがsustainされようとoverwriteされようと、サイト自体は存在し続ける。

いつ上書きされるかわからないthingを持続するには、それを編集不可にしてしまうのではなく、sustainしてそのthingに対する新しいthingを作るということになる。元のthingが変更されても、元のthingに対するthingは残っている。さらに新しいthingに対するthingが生まれたり、そもそも1つのthingに対して複数のthingが生まれることもある。そうなると、あるthingに派生するすべてのthingを変更するのは不可能だろう。

objectiveをクリックしていくと、thingの派生元をたどることができる。最後までたどると、出発点となる問いかけが存在する、あるいは存在していたとすべきか、その問いかけ自体が上書きされているかもしれないのだから。それでもサイト自体は存在し続ける。ある程度のthingが集まると、全体的に見ると、そこから先は大きく流れが変わることはないんじゃないかと予想している。


現在プライベートな事情により頭が混乱していて、文章は二転三転する。破壊について。破壊という行為には痛みを伴うというイメージがある。でも、レゴブロックで吐きそうになるまでして作ったものを壊すとき、壊す時でさえそれを楽しんでいたのを覚えている。なにしろ新しく作りたくて仕方がないもののために壊すのだから。こうなると、創造的破壊という言葉はやはり相応しくないように思える。けど、創造的破壊についてよくわかってないので、同じことを言っている可能性もあるのだが。とにかく、何かを作るという欲求を満たし続ける、持続するための活動の一環なのだ。


回っていないスシというのは、基本的に注文が入ってから作られる。まあ、材料はすでに用意してあるけど。回っているスシや、スーパーのパッケージのスシにしても、大量生産しているわけではないだろう。必要な分だけ作るというあり方を体現した食べ物なのだと思う。一方で、ナマモノなので、余った場合に破棄するしかないという性質を併せ持っている。ここで、スシというものがサステナブルなのかどうかという疑問が生じるわけである。これは調査が必要だろう。スシが食べたい。