八百万の神と監視社会について

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八百万(やおろず)の神は、主張しないところがいいところだと思う。そこらの石ころやら何やらが、「私が神だ」なんて主張をはじめたら、かなり面倒くさいことになるだろう。お天道様が見てるから悪さしちゃダメだなんて、最近の子どもは言われたりするのだろうか。(人が)誰も見てなくても、八百万の神の誰かが見てるから悪事を控える。治安が良すぎて鼻血が出る。

ある意味、八百万の神、つまり様々なモノに監視されている社会とも言える。そういった意味では、日本は古来より心理的監視社会だ。でも、生活の一部始終をカメラで撮影されてると、しだいにカメラを意識しなくなるという話を聞いたことがある。だんだん感覚が麻痺してくるのだろう。昔は機能していた八百万の神も、見られてる感覚が麻痺してきた日本人には効果が減衰しているのかもしれない。


監視社会においても、ただ監視されているということはそれほど脅威ではない。個人をトラッキングされてはじめて、危惧すべき事態となる可能性がある。それでも可能性があるという程度で、普通に生活している者にとってはちょっと恥ずかしい思いをする程度なんじゃないかと思う。

八百万の神はと言えば、もう完全に個人をトラッキングしている。悪さをすればその本人が罰を受ける。だが、八百万の神のいいところは、良い行いも検出する仕様になっているため、良い行いに対しては幸運がもたらされる。


デジタルネイティブな子どもたちは、マニュアルを読まないという気がするので、その辺の仕様を理解しているとは言い難いんじゃないだろうか。八百万の神のスペックおよび仕様については、親である僕らが教えていかなければならない。ところが、現代日本では監視システムに対する感覚が麻痺してきているから、僕らもただFacebookに不利益なことを書いて自損事故を起こさないよう気をつける日々である。子どもに教える前に、まず自分からということになる。


良い行いをすれば、お天道様は必ず見ている。自分を大切にできない人は他人も大事にできない、と言う。まずは、自分に良いことから始めよう。自分のために、お昼はスシを食べようと思った。