フリー・タイム・ランチ

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昼休みにランチを食べない。そんな決意をした。週に1回は12時前にランチを食べる。変わろうと思った。当たり前を当たり前だと思い込む。常識人である僕はそうやって生きてきた。昼休みにランチを食べることに何の疑問もなく生きてきた。でも。果たして、それでいいのだろうか。


食事を摂るということは生命維持に関わることだ。憲法の言う「健康で文化的な生活」のそのさらに下層に位置する。食事を摂るというのは一切の法律に侵害されない権利であるはずだ。一方、昼休みというのは、学校であったり会社であったりのルールでしかない。給食を一斉に配食するという目的は理解できるが、弁当や外食であれば食べる時間を固定する理由がない場合が多いのではないか。昼休みというものが何となくで決められてはいないだろうか。


腹が減ったら食事を摂る。食料の乏しい時代には、食事を摂ることができない時もあっただろう。しかし、現代の日本では、最低限10円あれば、うまい棒を食べることができる。もしも20円あれば、うまい棒を2本食べることができる。1000円ならば100本だ。生命維持に関わるエネルギーを補給することができる。なのに、なぜ、時間に縛られて生命活動を制限されてしまうのか。


食欲を満たすために、学校や会社、または社会のルールを破ってもいいと主張したいわけではない。性欲を満たすために犯罪を犯していいかというと、それは違う。ただ。昼休みが何となくで決められている可能性があるということ。その何となくで決められた時間によって生命活動が制限されていることに疑問を持たないこと。それが怖いと感じた。当たり前を当たり前だと思い込んでいる状態は、怖い。なにも昼休みに限ったことではない。現在この国で生きていれば、似たような、言わば歪みのようなものを感じることは少なくないだろう。


強調する。ルールを破ろうと思って、昼休みにランチを食べないと決めたわけじゃない。何の疑問も持たずに無自覚に生きている自分へ警報を鳴らすのが真の目的だ。義務教育の9年間で、日本人は昼休みにランチを食べなければならいという強迫観念にも近いような意識を刷り込まれてきた。これも義務教育を全否定するわけじゃない。正しいのかそうじゃないのか、必要なのかそうじゃないのか、自分で考えながら生きていこうと思っただけだ。


とは言え、このチャレンジには問題もある。寿司屋のランチタイムは残酷なほどにその時間が明確に定められている。寿司屋のランチタイムは絶対だ。それは、この国において唯一、生命活動を制限されてでも服従すべきものだ。生きるか死ぬかなど問題ではない。スシが食べれるかどうかがかかっている。そろそろ昼休みの時間だ、スシを食べに行ってこよう。