座り続け死に至る病

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彼はいつも座っていた。新卒同期でIT系企業に入社したのだが、学生時代アメフトのチームを率いていた彼はとても頼のもしい存在で、よく相談事をもちかけては一緒に飲みに行った。回転寿司のカウンターで隣に座った彼の力強い励ましの声に何度救われただろうか。

仕事熱心で先輩たちからよくかわいがられていた。仕事中ふと顔を上げると、パーティションの向こうに彼が座っているのが見えた。今になってみれば、彼は座りすぎていたように思う。1日のほとんどを座って過ごしていた。食事中はもちろん、トイレで用を足すときでさえ座っていることが多かった。しかし、当時は誰もそのことを気にかける者はいなかった。

僕が福岡に転勤になってすぐだった。彼が死んだという連絡が入った。とっさには信じられない。昨晩Twitterでいつもと変わらないやりとりをしていた彼がもうこの世にはいない。交通事故だった。中央線を越えて走行してきた軽トラックと正面衝突したらしい。

直接の死因は交通事故だったが、座りすぎが影響していたことは否定できない。現に、彼の遺体は乗用車の運転席に座ったまま見つかったという。もしも、もしもなんて意味のないことは十分承知だが、彼が座っていなければ、事故は防げたかもしれない。座りすぎが原因で死んだのだという思いは日増しに強くなっていく。

遺された僕らはいったい何ができるだろう。彼の死を無駄にしないためにも、僕らは座っていてはいけないんだ。そうだ、立ち上がろう。立ち上がるのは今だ。座ることを放棄すると同時に、勢いよく立ち上がった。店じゅうの客が一斉に僕を注目する。怪訝そうにこちらを見る店員と目があって、自分の置かれた状況を把握した。顔を伏せて椅子に座る。皿の上のトロサーモンを口に押し込む。隣の席には彼はもういない。

彼の死からまもなく1年が経とうとしている。僕は相変わらず座ってばかりの毎日だ。仕事中はもちろん、バスの中でも飛行機の中でも座っている。そんな時ちらりと彼の顔が頭をかすめることがあったが、それもしだいに薄れていった。それでも、仕事がうまくいかず心が折れそうになると今でも思う。彼とまたスシが食べたい。


誰もがすれば安全? 喫煙にも似た「座りすぎ」の危険性 « WIRED.jp
http://wired.jp/2013/03/05/sitting-is-the-new-smoking/

オトと食欲

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アスパラガスの「ガス」が苦手だという。最初は何を言っているのかよく解らなかった。目の前に並んだ緑色のスティック状の野菜、つまりアスパラガスのことだが、その名前が問題らしい。なんでも、「アスパラ」と言われて出されると普通に食べられるのに、「アスパラガス」と「ガス」がついた途端に食べる気が失せるのだという。

そんなことがあるものかと笑い飛ばしていたが、同席者の知り合いにも同じ症例、これはもう症例と呼んでも差し支えないと思う、アスパラガスの「ガス」が苦手な人がいるらしい。隣に座っていた前途有望な学生の話に耳を傾けるふりをしつつ、気になってさっそく調査を開始した。つまりiPhoneで「アスパラガス 名前 苦手」などとググってみたわけだが、同じ症例を2件ほど発見した時点で、隣に座っていた前途有望な学生の話など耳に入らなくなった。「それは2辺とその挟む角が等しいんじゃないかな」などと適当にアドバイスをしながら、僕は飲食物の名前と食欲についての研究活動に没頭した。

ポカリスエットというスポーツドリンクがある。近年はアクエリアスに押され気味な気がしているのだけど、ポカリスエットのCMは個人的に好感度が高く、同価格で販売されているとポカリスエットの方を手にとってしまう。ポカリスエットのパッケージには英語表記がデザインされていて、POCARI SWEATとなっている。英語圏の人たちからみると、SWEATが汗を連想させるため、あの液体が汗であるかのようなある種の嫌悪感を感じるらしい。確かに「男の汗」という名のスポーツドリンクがあったら、かなり飲みたくない。もっともニッチマーケットにおけるニーズはあるのだろうけれど。

思い返してみると、自分にも音とイメージについてずっと気になっていた食品があった。バルサミコ酢。最初にバルサミコ酢という言葉を聞いた時、それが酢であることはもちろん、食品だということすら知らなかった。バルサミコス。バルバロス、ケルベロスといったモンスター、もっと言えばデスピサロエクスデスなどのラスボスに位置づけていた。想像してみて欲しい。ラスボスだと認識していたバルサミコスを料理に投入することを知った時の衝撃を。ハバネロを超えるであろうその辛さを想像し、体中から汗が噴き出すのを感じた。もちろん、吹き出した汗の分はポカリスエットで補った。その後、バルサミコスがバルサミコ酢という酢であることを知るまでに長い時間を要した。

バルサミコ酢。文字にした時のこの違和感はなんだろうか。クリスチーネ剛田こと剛田ジャイ子を彷彿とさせるカタカナ+漢字ひと文字。それはピエール瀧とは明らかに異質であり、カタカナと漢字を分離できない居心地の悪さを感じる。ジャイって何だっけ?世界の中で自分だけが取り残されたような、そんな感覚。

調べてみると、バルサミコはイタリア語で「芳香がある」という意味らしい。そこに漢字で「酢」を付加したセンスに感心しながら、芳香はいらないので日本の酢、もっと言えば酢飯、つまりスシが食べたい、純粋にそう思った。

地下鉄空港線

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「地下鉄空港線


例えば1番乗り場に福岡空港行き電車が到着するとしたら ご注意ください

そして1番乗り場から電車が発車するその時には トビラにご注意ください

この車両のみなさまの ラッキーカラーは 黄色

黄色で馴れ親しんだ天神ロフトへは 次でお降りください

テンジン テンジン チカテツナナクマセン ニシテツオオムタセン

は、お乗換えです 大切な何かを忘れてしまわないよう ご注意下さい

大きなナン

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はじめてインドカレーの店に入るとき、かなり覚悟を決めて入ったことを覚えている。立看に示された値段は許容できるものだったが、味に関しては完全に未知だった。それに、外国人のやっている店というものを経験したことがなかった。結局、おいしいカレーと予想以上に大きなナンに満足して、その後なにかと機会があるたびに食べに来ることになる。ナンが大きかった。

良くも悪くもいったん経験してしまうと、他の店にも入るハードルは大幅に下がる。いくつかの店でカレーとナンのセットを食べるにつれ、どの店もナンが大きいといことを知った。考えてみれば、ナンをある程度大きくしたところで原価はそれほど変わらないような気がする。であれば、他店のナンが大きければ、それに追随するという戦略も考えられる。

知らないうちにナンの大きさはしだいに大きくなっていっているのかもしれない。気づいた時にはあまりの大きさに、なにがナンだかわからないという事態に陥っている可能性もある。競合が4つの機能を持っていたら5つの機能を搭載するというワンアップの戦略にはデメリットが多い。機能をひとつ増やす代わりにひとつ減らせ、と37signalsは言う。それが少ないリソースで相手を打ち負かす方法だと。

そこまで思考を巡らせたところで、ナンは大きくなっていっているのではなく、そもそもあれが標準的なサイズなのかもしれないという気がしてきた。ナンだかよくわからない。気分転換にランチにでも行こうかと考えるが、数日前に食べたカレーにはあまり魅力を感じない。どちらかと言うと、スシが食べたい。

漢字のユーザビリティ

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エレベーターに乗り、無意識に6階のボタンを押す。毎朝繰り返される動作の中に思考の余地はない。ゆっくりと閉まりかけた扉の隙間から足早に近づいてくる配達員の姿が見えた。慌てて扉を開こうとタッチパネルに手を伸ばすが、そこで一瞬手が止まる。

「開」と「閉」という漢字。文章を読んでいるときに見間違えることは少ない。しかし、エレベーターのドアが閉まりかけた瞬間に限り、判別するのにわずかながら時間を要する。ユーザーインターフェイスの一要素として漢字を取り入れるときには注意が必要なのだと思う。

「開」と「閉」の代わりに「生」と「殺」だったらこの一瞬は存在しないだろうし、人によっては気持ちのよいインターフェイスと言えるのかもしれない。そんなことを考えつつ、完全に閉まった扉の向こうの配達員に心のなかで頭を下げる。もっとも2階を通り過ぎる頃にはそんなことは忘れて、ランチにはスシが食べたいなどと考えているのだけれど。

スマフォアプリ開発

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iPhoneアプリ開発がコモディティ化してきている。去年だったか、そんなことを主張していた。そしていま、なめこも杓子もiPhoneアプリを作っている。開発者ならスマフォアプリは作れて当然。そんな時期に差し掛かっているのかもしれない。

それだけじゃない。デザインだ。ユーザーインターフェイスだ。コーヒー入り炭酸飲料だ。境界線がどんどん曖昧になっていくのを感じる。なにもかもやらなきゃいけない気がしてくる。でも、本当にやらなきゃいけないことって何だろう?やらなきゃいけないと思い込まされてるだけじゃないんだろうか。

一歩引いて観る。栽培されて刈り取られるだけの生活を送ってはいないだろうか。大震災を経験して、当たり前が当たり前じゃないことに気がつき始めた人も多いんじゃないかという気がする。誰もがスマフォアプリの開発を始める必要があるとは思えない。何が本当に大切なのか。血なめこになって探すべき時期に来ているのだという気がする。

選択肢は多すぎるくらいにある。どれを選択しても許されるとしたら、みんな何をするんだろう。僕は、スシが食べたい。